私たち自在館は、この地で約400年、湯守を受け継いで参りました。代でいうとちょうど、二十五代目となります。
これもひとえに、栃尾又温泉に足を運んでくださる湯治客の皆様に支えられてのこと。ここまで歴史を重ねてこられたことに、心より感謝申し上げます。
昔は、怪我や病気の療養の場、半ば医療機関のような役目も担ってきた湯治場ですが、時代と共に、怪我や病気は病院で治療するものに移り変わってまいりました。もちろん今でも、「湯治=怪我や手術後の療養」として湯治に訪れる方もたくさんおられます。
また、湯治のスタイルも変わりました。昔は湯治といえば、農業の閑散期に1ヶ月から3ヶ月の長期帯在をするのが主流。食事は自炊で、知らない人と相部屋というのも普通だったそうです。今では、2泊3日や3泊4日の方が多く、長い方でも1、2週間程の滞在です。食事も、自炊をする方はほとんどなく、お宿で食事をご用意するのがほとんどです。
現代を生きる人々が湯治場に求めるものは「心の静養」や「未病対策」に移り変わっております。しかし、変わらない本質は、どんな時代も「健やかに生きたい」という人々の願いだと思います。
現代社会の変化のスピードにはめまぐるしいものがあります。スマートフォンを開けば、どこでも、誰とでも、たくさんの情報に触れることができる時代。移動手段もこれから益々進化して、短時間でいろんな場所に行けるようになります。私たちが想像もつかないような新しい技術がたくさん開発され、私たちの生活も変ってゆくことでしょう。そんな中で、私たちはいつまでも「変わらないもの」を大切にしていきたい。変わることと同じように、変わらないものも大切にしていきたい。忙しい日常から、ふと時が止まったように懐かしい気持ちになれる場所。それがこの湯治場の一番の魅力であり、秘湯の宿が守っていかなければならないものだと思います。
こんこんと湧き出てくる温泉は、地球からの預かり物です。この温泉を私たちはなるべく自然のままお客様にお届けしたいと考えています。そして、これからも皆様の大切な場所であり続けられるよう、湯守一同、一生懸命にこの温泉を守ってまいりますので、どうか末長く、見守っていただければ幸いに思います。
自在館 湯守一同
行基は、人々に仏法を教え、寺院などを多く建てただけでなく、溜池、架橋、堀など社会事業を各地で行ったことで知られており、奈良の大仏建立の実質的責任者でもある。全国の名湯と云われる温泉地に数多くの開湯伝説を残している。
「星家は村の庄屋を務める傍、栃尾又温泉場の経営者で、慶長の頃から連綿として続いた家柄である。」と、大平賢作(元住友銀行取締役会長)の筆書「我が家を語る」に記載。大平賢作は自在館から大平家に嫁いだ、「とよ」の孫にあたる。
交通手段は馬や徒歩。リヤカーに食糧や日用品を乗せそれを馬にひかせて来た。小出地域にあった「かちき問屋」から馬に乗り、芋川(湯之谷地域)まで来て、さらに馬を乗り換え自在館まで来ていたという。
1800年終盤までは冬の営業はしていない。冬の前に大湯にあった「栃尾又」という場所に帰っていた。また、この頃までは銀山へ抜ける街道として、手押し車などを押して、旅人や、銀の坑道仕事の者が往来した。
1900年頃から冬も営業をし始める。今とは違い、客も宿で一冬を超し、春になると、山を降りたという。 特にやけどや胃腸病の人が長期滞在をしていたという。また、宿に男衆という役割があり、雪おろしや道つけをしたり、雪ソリを引いて10キロ程降りた小出町まで週に一二度、買い付けに出かけたという。 その際、お客さんに頼まれたお使いも沢山あった。
この頃の交通手段は3本程度の路線バスのみ。お客は我先にと、バスにぎゅうぎゅうづめで、栃尾又まで来たという。 「長岡市史」によると、この年の4月から8月の間に栃尾又へ湯治へ行った長岡の町方・村方の人々は142人だったと記載されている。
まだ除雪車もなく、冬は地域の住民が手作業で除雪を行い道を確保していた。(昭和25年ごろまで)
中越地震時に一時温泉が止まるが、数日後に復活する。中越地震後は、震災の風評被害もあり客数が激減する。
2010年頃から少しずつ、震災前の客足に戻りつつある。
・・・現在に至る。
自在館へのご予約は、公式HPまたは秘湯を守る会からのインターネット予約が一番お得です。